禅仏教の深層心理学―唯識について③
第七識「末那
まな
識
しき
」は、先天的に備わり、かつ、心の深層で働く自我意識です。唯識仏教では、無意識の中のエゴの心であるとらえています。利己心、我執というものが無意識の世界である「末那
まな
識
しき
」において常に働いているわけです。
自分個人の枠内で働く無意識という意味では、ユングのいう「個人的無意識」に近いものと考えてよいでしょう。
「個人的無意識」は、個人の夢や願望の根源でもありますから、一概に悪いことばかりではありません。ただ、心の浄化によってお釈迦様のような仏の境涯になることを目的とする仏教においては、自分にこだわること自体を成仏の妨げととらえるので、「末那
まな
識
しき
」について否定的な見方が強調されています。
第八識「阿頼耶
あらや
識
しき
」は、五識と意識、末那
まな
識
しき
までの七識を生ずる根源的な心であり、自然界を含めたあらゆる存在を生み出す「種子
しゅうじ
」をおさめた心です。(ちなみに「種子」を唯識仏教では、「しゅうじ」とよんで、植物の種と区別しています)
阿頼耶
あらや
識
しき
は、自分で何かを考えるという働きはなく、意識や末那
まな
識
しき
の働きの結果を受け取り、おさめていく蔵のような存在であり、別名「蔵
ぞう
識
しき
」とも言われます。
私たちが何か経験をすれば、その経験がすべて「種子
しゅうじ
」として「阿頼耶
あらや
識
しき
」に残るのです。
その「種子
しゅうじ
」が、何かの縁に触れて現実世界に現れてきます。
それを「現行
げんぎょう
」といいますが、「現行
げんぎょう
」が起きると、それがまた、「阿頼耶
あらや
識
しき
」の中に「種子
しゅうじ
」をとどめていきますが、これを「薫習
くんじゅう
」といいます。
人間が感じたこと、考えたこと、それらがすべて、阿頼耶
あらや
識
しき
の中に薫習
くんじゅう
されるのです。阿頼耶
あらや
識
しき
に何を薫習
くんじゅう
しているかによって、人格も変われば、その人の見える世界も変わってきます。結果的にその人の人生が大きく変わります。