精一杯の花を咲かせた堂々たる人生

2014-01-01

曹洞宗の禅僧の中で、昭和の時代に最も活躍されたのが、沢木興道老師です。
(さわき こうどう、道号:祖門、明治13年(1880年)生まれ -昭和40年(1965年)没)

何回かに分けて、沢木興道老師の残された言葉に、一番弟子であった内山興正(こうしょう)老師が解説をつけた本、『宿なし興道 法句参(ほっくさん)』(大法輪閣)から、沢木老師および内山老師の教えをご紹介してきました。

内山老師がまとめた沢木老師の教えのポイントは、以下の5か条です。

<沢木興道老師の禅のポイント>
第一、仏法とは、ゆきつく所へゆきついた人生を
教えるものである。

第二、坐禅は、透明なる自己になることである。

第三、坐禅は、自分が自分を自分することである。

第四、坐禅は、宇宙とぶっつづきの自己になることである。

第五、坐禅してもなんにもならぬ。

今回は、「沢木老師の教え」5か条の第5条「坐禅してもなんにもならぬ。」について、内山老師の解説を見てましょう。

<内山興正(こうしょう)老師の解説-1>
坐禅の話を精一杯しておいたあげく、
沢木老師は「坐禅してもなんにもならぬ」といわれるのだから、
人をバカにしていると思う。

しかしそうではない。というのは今いったように、
われわれ「どっちへどう転んでもわがいのち」を
生きるのであるかぎり、
もはや今さらどこへもいきようはない。

いく所はないわけだ。どこへもいく所はないのだから、
坐禅したってなんにもならないのはあたりまえだ。
これ宇宙一杯だからどうしようもないのです。

沢木老師ほど、自ら坐禅をするとともに、在家の一般人を含め、多数の人に熱心に坐禅を指導した師家(しけ)は、戦後日本においても、少ないのではないでしょうか。

内山老師が沢木老師と出逢った鶴見の総持寺における夏期参禅会においても、「ひたすらに坐禅すること」を指導されたと思います。それでいて、坐禅の功徳については、否定されています。

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