自分に授かっただけが、授かったもの

2013-11-01

曹洞宗の禅僧の中で、昭和の時代に最も活躍されたのが、沢木興道老師です。
(さわき こうどう、道号:祖門、明治13年(1880年)生まれ - 昭和40年(1965年)没)

沢木興道老師の残された名言に、一番弟子であった内山興正老師が解説した本、『宿なし興道 法句参(ほっくさん)』(大法輪閣)から、興道老師の名言及び教えをご紹介するシリーズの第6回目です。

<法句(沢木老師の言葉)-1>
人間、金をもっていなけりゃ 生きて ゆかれんような 
甲斐性(かいしょう)なし じゃ 困るね。

沢木老師は、明治13年(1880年)の生まれです。
当時の日本は、明治維新によって、ようやく近代化が始まったばかりの時代で、GDP世界第3位の経済大国である現在より、はるかに貧しい国でした。
沢木老師は、その貧しい時代の日本でも、最も貧しい、厳しい環境で育った方でした。

沢木老師が晩年を過ごした安泰寺のHPによれば、沢木老師は、三重県津市に生まれました。
しかし、5歳で母が、8歳のときには父が急逝します。
それで叔母の元にやられたのでしたが、その連れ合いである叔父が半年後に亡くなり、結局知り合いの提灯屋(ちょうちんや)とは名ばかりで、博奕(ばくち)打ちを渡世としていいた沢木文吉さんの養子にもらわれていきます。

沢木老師の養子先の界隈は、遊廓(ゆうかく)の裏町であり、詐欺師(さぎし)、香具師(やし)、博徒(ばくと)等、およそ世の中の吹きだまりのような環境でした。
沢木老師は、そこで改めて9歳から地元の小学校に編入し、 賭博(とばく)の見張り番をさせられたり、寄席(よせ)の下足番をしたりしながら、13歳で小学校を卒業し、その後は、本業である提灯屋(ちょうちんや)に精を出しました。まともに働くことのない養父母を養うために、幼い沢木少年は働きます。

そのようなあるとき、近所の遊廓(ゆうかく)の2階で、孫のような若い遊女を買った五十男が急死するという事件がありました。
これを目の当たりに見て、初めて老師は骨の髄まで無常を感したといいます。道を求める心が芽生え、後の出家につながります。
<安泰寺HP http://antaiji.dogen-zen.de/jap/sawaki-syougai.shtml  より>

幼くして両親に死に別れ、遊郭(ゆうかく)地帯の博奕(ばくち)打ち、つまりヤクザの養子となった沢木老師は、少年時代から大変な苦労をして育ちました。 
沢木老師は、自分も博奕(ばくち)打ちになってもおかしくない環境で育ったわけですが、その中で人生の無常を感じて出家に志し、後に昭和を代表する禅僧の一人になったのですから、すごい方です。

まさに「栴檀(せんだん)は、双葉(ふたば)より芳(かんば)し」を地で行く傑物だったというべきでしょう。

「栴檀(せんだん)は、双葉(ふたば)より芳(かんば)し」
「栴檀(せんだん)」は、白檀(びゃくだん)の異称。
白壇(びゃくだん)は発芽の頃から早くも香気があるように、
大成する人物は、幼いときから人並みはずれて優れたところがあることのたとえ。

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