般若心経について-その1「はじめに」(1)

2013-05-03

これから、『般若心経(はんにゃしんぎょう)』について、何回かに分けて、私自身の読み方や考えをエッセイとして書いていきたいと思います。

『般若心経(はんにゃしんぎょう)』は、日本で最も親しまれているお経の一つです。日本だけではなく、中国でも、チベットでも、東南アジアなど南方仏教圏でも広く読まれているお経です。
 『般若心経』は、『摩訶般若波羅蜜多心経』(まか-はんにゃ-はらみた-しんぎょう)』が正式な名前です。
(宗派によって『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』(まか-はんにゃ-はらみた-しんぎょう)』という場合もあります)

 『般若心経』の本文は、わずか262文字という短いお経ですが、大乗仏教の中心的な教えである「空(くう)」の教えを端的に表したお経であり、昔から「天下第一のお経」といわれました。

このお経は、観自在菩薩(かんじざいぼさつ)が、お釈迦様の十大弟子のひとりである舎利子(シャーリプトラ)に対して、空の教えを説くという構成になっています。

ここでいう観自在菩薩(かんじざいぼさつ)は、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)と同じ仏様(菩薩:ぼさつ)です。

観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)は、「観音様(かんのんさま)」として、広く親しまれている名前です。

特に浅草の近くで育った私にとっては、浅草の「観音さま」は、最も親しい仏様でした。
 ちなみに、私は、浅草の浅草寺(せんそうじ)が経営する浅草寺幼稚園のOBです。幼稚園のOBというのは、ちょっと変な表現ですが、浅草寺幼稚園には、2年間、お世話になりました。

後に、高校生くらいの時でしょうか、菩薩(ぼさつ)というのが、大乗仏教においては、仏(如来:にょらい)を目指す修行者の理想像であり、厳密には「仏」(如来:にょらい)ではないということを初めて知った時には、軽いショックを受けました。

もっとも、大学時代に禅道場に本格的に通うようになり、仏教の入門書などを読むようになると、菩薩の中でも、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)などは、実質的に「仏」=「如来(にょらい)」と同じ境涯にあるということを知りました。

観音菩薩(かんのんぼさつ)は、いつでも仏になれる(成仏できる)のに、私たち衆生(しゅじょう)を救うために、あえて「成仏(じょうぶつ)」せずに、現世にとどまる存在であるという存在です。

それを知ったときは、妙にほっとしました記憶があります。
幼稚園時代から、何度も浅草寺で観音様に手を合わせてきた私にとっては、今でも「観音さま」は、最も親しみを感じる最高の「仏さま」です。

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