達磨(だるま)の壁に向かった九年間
■山寺にこもった達磨(だるま)(2/2)
もちろん、ひたすら坐禅するといっても、人間ですから、食事や睡眠は適度にとられたでしょう。
たまには、頼まれて説法(現代でいう講話)をすることもあったかもしれませんし、文章も書かれたようです。
もっとも、スリランカ生まれで、インドで修行された達磨大師が、はたして中国語を理解できたのか?という疑問もあります。
達磨大師(だるま-だいし)の存在自体が伝説的なので、細かいことを気にしても仕方がないのですが、強いていえば、最初のうちは、インドに留学経験のある中国僧が通訳を務め、そのうちに日常会話くらいは話せるようになられたのではないかと私は理解しています。
達磨大師(だるま-だいし)は、黙って坐禅をすることで、禅宗の教えの眼目を全身で示しておられました。
禅の真髄は言葉では伝えられないので、自らの坐禅で人々に教えたわけです。坐禅をする姿そのものが大説法でした。
そうして忍耐強く、後継ぎに足る人材が現れるのを待ったのでした。
それにしても、達磨大師(だるま-だいし)は、わざわざインドから禅の教えを伝えるために、中国にやってきたというのに、なぜ、皇帝の招きを断り、山奥の寺にこもって坐禅をしていたのでしょうか?
本来ならば、皇帝の支援の下で、都の大きなお寺で有力者に説法したり、国家のお金でたくさんの弟子を育てた方がよほど効率的です。
現代のビジネス感覚で見れば、禅の教えを伝えるという目的に対して、「山寺にこもる」というやり方は、あまりにも効率が悪いというか、そもそも方法論がまずいのではないかと感じることでしょう。
しかし、達磨大師(だるま-だいし)は、きちんとした意図をもって、わざと山寺にこもったのでした。
そこには、現代のビジネスにも通じる智慧があります。次の章で、それを解説いたしましょう。