2018年6月22日(金)「禅の知恵と古典に学ぶ人間学勉強会」開催しました。
今回は出処進退について、引き際と後進に道を譲る事についてを解説頂きました。
東アジア(中国、朝鮮、日本)における最大の古典である「論語」の精神は、徳治(とくち)主義といわれます。徳のある立派な人物が、正しい理念と思いやりの心をもって人を治めていくという考え方です。
徳治の中身には、いろいろな面がありますが、どのような人にも寿命があるように、要職にある人にも、引退の時期が来ます。そのときの出処進退、特に退く時に潔くきれいに退くということが大切ですが、同時に難しくもあるとされます。
出処進退の爽やかさ
出処進退については、特にリーダーの職にある方にとって引き際というのが難しい判断だと思いますが
人間の真価は引き際に見られる所に価値があるという事で
伊藤肇氏の『現代の帝王学』を基に
興銀相談役の中山素平氏
「責任者は、その出処進退に特に厳しさを要するというより、出処進退に厳しさを存するほどの人が責任者になるべきである」と規定
特に「退」には、のっぴきならなぬ
二つの「人間くさい作業」をやらねばならぬから、そこのところを見極めてさえおれば、最も正確な人物評価ができるのである。
一つは「退いて後継者を選ぶ」である。
これは企業において、自分がいなくても、仕事がまわっていくようにすることである。
いわば「己を無にする」ことからはじめなければならない。
住友総理事だった伊庭貞剛(いばさだたけ)は「人の仕事のうちで一番大切なことは、後継者を得ることと、後継者に仕事をひきつがせる時期を選ぶことである。後継者が若いといって譲ることを躊躇するのは、おのれが死ぬことを知らぬものである」と、痛烈な言葉を残している。
二つは「仕事に対する執着を断ちきる作業」である。
仕事を離れてみると、はじめて仕事が自分の人生にどんなウェートをもっていたががよくわかる。
そして、いかにも沢山の仕事をしてきたようにみえても、それがそのまま、自分の生きたあかしとはなり得ないことに気がつき、あげくのはては自分ひとりだけがとり残されたような、穴の底深く落ち込んでしまったような空爆感にさいなまれる。
これを克服するのは、口でいうほど、生やさしいことではない。
伊庭貞剛(いばさだたけ)紹介
1847-1926 明治時代の実業家。号は幽翁(ゆうおう)。
弘化(こうか)4年1月5日生まれ。
明治12年叔父(おじ)で住友家筆頭番頭の広瀬宰平にまねかれ,
司法官から住友家の本店支配人となる。
別子鉱業所支配人,総理事を歴任し,住友財閥の基礎をきずいた。
大阪紡績,大阪商船の創立にもかかわった。23年衆議院議員。
大正15年10月23日死去。80歳。近江(おうみ)(滋賀県)出身。
【格言など】
事業の進歩発達に最も害をなすものは,青年の過失ではなくて老人の出しゃばりである
(明治37年58歳で住友総理事を譲って引退する際のことば)
<伊庭貞剛の幹部社員育成法>
(前略)・・住友グループの礎を築いた第2代総理事の伊庭貞鋼(いばていごう)
(天保8年~大正15年)は部下が持ってきた書類に目を通さずに判を押すことで有名であった。しかし判を押すが責任はとらないというのではない。
ことごとく判を押すが一度押した書類については絶対に責任をとったといわれる。
この書類を見ないで判を押したことで何が起きたかといえば、住友グループの礎を築く人材が次々と育ったのである。
部下は何を書いても判を押してもらえる。しかし、不備な書類のために問題が起きれば全て伊庭(いば)さんが責任をとらなければいけなくなる。これでは申し訳ないということから、どうせ判を押してもらえると分かっていても、部下たちは一生懸命調査や準備をし、絶対に間違いのないよう書類を書いた。そういうことから、おのれ自身が最高意思決定者のような立場で、仕事をする習慣ができ人材が育っていったのである。
愛媛県の別子銅山の運営だけを長年生業としていた住友であったが、伊庭が総理事に就任すると住友銀行(現三井住友銀行)を創設した他、現在の住友金属工業、住友軽金属工業、住友電気工業、住友林業の前身となる事業や住友倉庫を設立するなど、育てた人材とともに現在の住友グループの土台を築いた。・・・(後略)
「偉人のエピソード集」より
http://tamiyataku2.blog.fc2.com/blog-entry-7.html
戦前の住友財閥の基礎を作った大経営者である伊庭貞剛は、とても人物の大きな人で、ビジョンと胆力を併せ持った偉大な経営者です。
部下を信頼して、書類に目を通さずに決裁したことで有名だったそうですが、自分が決裁したことについては、責任を取ったと伝わっています。
当然、ビジネスの世界ですから、すべてが成功するわけではなく、失敗したプロジェクトや稟議書もあったわけですが、伊庭は、部下の責任を追及するよりも、部下をかばって、自ら失敗を引き受けたのでした。
その結果、部下は、積極的に仕事にチャレンジでき、また、尊敬する伊庭に迷惑をかけないように、より高い視点でものごとを考えるトレーニングができました。結果的に、後の住友財閥を率いる優れた人材を育てることができたということです。