『論語』の言葉-1「学んで時にならう」

2012-12-15

これから、伝統的な中国文化圏(中国、朝鮮半島、日本など)において、古来、最高の古典として読み継がれてきた『論語』の言葉の中で、ビジネスパースンにとって知っておいて損はないと思うものを順次ご紹介していきましょう。

なお、私は、学生時代から、30年近く、臨済禅の修行に取り組んできました。特に、20代は、3年間も大学を自主休学したり、大学卒業後も、3年間は、まともな就職をしようともせずに、夢中になって、人間禅道場の白田劫石(はくた ごっせき)老師に参禅(老師と1対1で禅問答する修行法)してきました。
そのため、『論語』の解釈も、自分の禅体験をベースにしたものになります。

もちろん、有名な学者の書いた注釈書は参考にしますが、最後は、自分の解釈になりますので、一般的な本と違った解釈になっている面もあるかと思います。『論語』の言葉に触発された自分の考えを書いているとご理解ください。

まず、『論語』冒頭の有名な一章です。

「(聖賢の道を)学んで、絶えず復習して身につけるようにすれば、しだいに智が開け、道が明らかになるから、まことに喜ばしいことではないか。
自分と同様に道に志す人が、近くはもとより遠方からも集まるのは、なんと楽しいことではないか。
自分が他人から評価されなくても、泰然自若として、不平らしい心を起こさない。このような人こそ、君子(くんし:立派な人格者)ではないか。」

「学んで時にこれを習う。また、説(よろこ)ばしからずや。
朋(とも)有り、遠方より来る、また、楽しからずや。
人知らずして、愠(いから)ず。また、君子ならずや」
『論語』学而第一より

まず、「学んで絶えず復習する」学びの対象ですが、伝統的な朱子(しゅし)の解釈では、「聖賢(せいけん)の道」を学ぶということになります。
「優れた人格者になるための道」という意味で、これは、現代的に考えれば、「人間学」ということでしょう。

もちろん、どんな学問であれ、スキルであれ、学んで繰り返し復習して身につけば、うれしいに違いありません。
ですから、学びの対象はそれほど、問題ではないかもしれません。

しかし、特定のスキルや専門性の高い学問は、時代変化とともに、常に陳腐化の危険があります。学んでも、学んでも、現実の変化に追い付けずに、つねに不満足感や不安感を感じる場合もあります。

公認会計士の立場でいえば、21世紀になってからの会計基準などは、まさにそのような感じです。そもそも、会計基準が複雑になりすぎて、また、変化(改正)のスピードが早いので、一人の公認会計士が、すべての会計基準を細部まで把握することは、ほとんどできないほどです。
(会計基準の骨格は何とか理解できますが、細部については、実際の監査現場で具体的な問題にぶつかって、現実に当てはめて詳細に検討することで、やっと、理解できるという感じでしょう。)

その点、人間としてのより良い生き方を考える「人間学」の場合は、どこまで学んでも極まりはないのですが、学べば学んだだけ、心が豊かになり、静かな喜びや満足感が心の底から湧いてきて、私たちの人生を幸せに導いてくれるものです。
ですので、「学んで時に習う」とは、「人間学」を学ぶと解釈するのが穏当でしょう。

しかし、禅的に考えれば、「学んで時に習う」とは、「自己とは何か」を学ぶことを意味すると考えたいところです。禅の言葉でいえば、「己事究明(こじきゅうめい)」ということです。

禅では、まず、「自己とはなにか」を大切にします。「自己とはなにか」というテーマを一大事ととらえて、徹底的に追及するのです。
自分で自分のことがよくわかないと、本当の自信が得られず、常に他人の評価に左右されることになりかねません。

また、自分で自分のことがわからない人は、他人のことも、社会のことも、よく理解できないでしょう。自分のことを学んで、自分をしっかりと確立することで、他者のことを理解する足場が固まると考えられます。

グラフにたとえれば、自己とは原点です。まず、原点を確立しなけば、縦軸も横軸も引けません。原点が定まらず、縦軸や横軸がゆがんでいたら、良いグラフはかけないでしょう。人生も同じではないでしょうか。

道元(どうげん)禅師(ぜんじ)は、以下のように書かれておられます。

「仏道(ぶつどう)を習うということは、自己を習うことだ。
自己を習うということは、自己を忘れることだ」

「仏道を習うとは、自己をならうことなり。
自己をならうとは、自己をわするることなり」
『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』「現状公案(げんじょうこうあん)」より

「俺が、俺が」という自己中心的な心を忘れて、心静かになったとき、自ずと自分の心の本当の姿(あり方)が見えてきて、深い教えも理解できるようになるということです。

「自己を習う」には、坐禅など、古来から伝えられている瞑想法を毎日10分でもよいから実行することがよいと、私は思います。

3か月、半年と、瞑想の時間をもつように続けていると、次第に瞑想中は「自己を忘れる」ことができるようになります。それとともに、心が活性化して、静かな自信や喜び(安心感)が心の奥底からわいてくることを実感できるでしょう。

私は、誰でも、どこでも、簡単にできる「イス禅」(イスに普通に腰掛けて、足を組まない坐禅)が、最も優れた瞑想法であると思っております。
しかし、これは、私が30年近くも禅に取り組んできたからで、他の瞑想法と詳細に比較検討したわけではありません。

ヨガや太極拳でも、その他の瞑想法でも、歴史に根差して、たくさんの人が試してきた方法ならば、おそらく、どれでも効果が期待できると思います。
また、キリスト教の祈りや浄土真宗の念仏も、祈りざんまい、念仏ざんまいになれば、立派な「瞑想法」といえるでしょう。

『論語』から大分、脱線してしまいました。禅については、また、後日、別の項で書きたいと思います。

『論語』に戻れば、「学びて時に習う」ことによって、「人間学」を学ぶことで、心豊かに感謝の気持ちをもって毎日を過ごせるようになり、人生が明るく楽しくなるということを孔子は述べていると解釈したいと思います。

「朋あり遠方より来る」以下については、次の項で書きたいと思います。

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