仏法とは、ゆきつく所へゆきついた人生を教えるもの

2013-11-29

道元禅師が「畢竟帰処」(ひっきょう-きしょ)と表現されたことを「沢木老師は現代的平言葉(ひらことば)で「ゆきつく所へゆきついた人生」と表現された」わけです。

内山老師は、その言葉に感激されて、30歳近くで出家して、沢木老師の弟子となって、生涯を禅修行に捧げられたのでした。

世間的なものを打ち捨てて禅の修行に全てを掛けた内山老師は、「おれは、食うために生きたことはない。生活のために働いて収入を得たことはない」という生活をされます。
1960年代に、はるばる禅に憧れて日本にきたアメリカのヒッピーたちさえも、内山老師の徹底した生き方や言葉に驚いたそうです。

禅の修行によって「真実の自己」を磨き出すことに打ち込んだ内山老師から見ると、世間的な生き方は、「迷いの世界で迷いに溺れる生き方」に見えたことでしょう。
そのあたりを痛烈に解説されておられますので、紹介いたします。

<内山興正(こうしょう)老師の解説>
その点、今もいったように世間の人たちはまったく

「中途半端、いい加減、ごまかし、不十分」だけで生きている。
なぜそんな生き方をするかといえば、だいたい、
ただ惰性だけで生きているからだ。
こういうのを「居眠りぼけ」という。

あるいは何か自分の欲することにカッカのぼせ上って
夢中になって追いかけて一生を送る。
これは「欲ぼけ」だ。

それから沢木老師はよく「グループぼけ」といわれたけれど、
これはおのおの自分の所属するグループにおいて、
一番価値ありとされることを追求する。

このグループぼけにはいろいろあって、
今の人たちが「企業のおんため」
「会社のおんため」とやっているのは、
グループぼけの中でも「組織ぼけ」というべきでしょう。
      (中略)

そういうのはすべてみな
「中途半端、いい加減、ごまかし、不十分」な生き方
 でしかない。

大切なのは、自己から出発して、
どこまでも自分のゆきつく所にゆきついた生き方を
しなければならない。
そしてこれこそが、すべての根本でなければならない。

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