無門関第二十則「大力量人」

2014-06-08

大分、話が脇にそれてしまいましたが、仏教の世界で、中国古典の素読にあたるのが、お経の読誦(どくじゅ)、すなわち読経(どきょう)です。

しかし、多くの場合、読経は、お経の漢文を書き下し文にせずに、頭から音読していきます。

『般若心経(はんにゃしんぎょう)』など有名なお経の読経は、本職のお坊さんがインターネット上にたくさんアップされていますが、いずれも、「カンジーザイ ボーサー ギョウジン ハンニャハーラーミータージ・・・」といった具合で、書き下し文になっていません。

それだけに余計に音楽性が強くなり、自分で声に出して読経すると、それだけで軽い瞑想状態に入れるような気が致します。

実際に、現代の瞑想法には、意味の分からない呪文(マントラ)を繰り返し唱え続けることで、瞑想に入るという方法が普通にあります。

歴史的に、読経(どきょう)は、仏様への供養の心を表すもので、瞑想を目的として意識していないと思いますが、実際にやってみると、確かにある程度の瞑想効果があるように思います。

さて、禅道場で、老師が『無門関』などを提唱されるときは、まず老師が一人で、本文を素読します。漢文の書き下し文の形です。

それから、一節ごとに、公案の精神を提唱していきます。その間、修行者は、全身を耳にして、老師のお話を聞くことに集中します。

聴聞三昧(ちょうもん-ざんまい)というやり方は、伝統的な提唱の聞き方として、長く受け継がれたやり方ですから、十分に意味がある正しい修行方法です。

しかし、自宅で、一人で禅の提唱録などを読むにあたっては、まずは、本文を素読するのが良いと思います。

禅の語録は、『論語』などに比べると、漢文自体が難しく、内容も「悟り」の世界の話ですから、なおさら理解しにくいものがあります。

しかし、禅の本も、古典としての言霊(ことだま)の力が同じようにありますから、素読することによって、何か得るものがあることでしょう。

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